JR石岡駅の前に「茨城県名発祥のまち」の看板が立っている。 |
常陸風土記では茨城郡は常陸国の中心で、常陸府中(現在の茨城県石岡市)周辺を指した。常陸府中には常陸国衙(こくが)、
茨城廃寺は7世紀の後半、奈良時代以前に建立された寺で、国分寺・国分尼寺より古い寺である。
発掘調査の結果、茨城廃寺跡から「茨木寺」「茨寺」等と墨書された土器が発掘された。
この地方を常陸風土記では「茨城の郡」と記した根拠の一つであることが分かる。
茨城廃寺跡から「茨木寺」「茨寺」等と墨書された土器が発掘された。 |
なお、常陸風土記の茨城郡の条には次のような言い伝えが記述されている。以下は石岡市教育委員会が石岡市茨城(ばらき)に立てた解説板を書き取ったもの。
『昔、この辺りには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが、山の斜面やがけなどの穴を掘って住んでいた。里人のすきをうかがっては、多くの仲間を率いて、食物や着物を奪ったりすることから、付近の里人は大変困っていた。そこで、黒坂命(みこと)という人が、土ぐも退治にのり出し、土ぐもらが穴から出ているときを見はからって、野茨で穴の入り口をふさいで城(柵)を作ってしまった。そして、山野に出ていた土ぐもを攻撃したところ、土ぐもたちは、いつものように穴にもぐりこもうとして、茨に突き当ったり、引っかかったりして傷を負い、山の佐伯、野の佐伯も退治されてしまった。
茨で城(柵)を作って土ぐもを退治したことから、この辺りを茨城と呼ぶようになったというものである。』
明治の廃藩置県の際に、常陸国の中心の「茨城郡」
1590年(天正18年)、佐竹氏と常陸府中(石岡)
したがって、廃藩置県で水戸が県庁所在地になる際は、水戸が所属した茨城郡に因んで「茨城」