2007年6月24日日曜日

藤沢周平著「白き瓶(長塚節・歌人の死)」を読んで

「歌人の死」は悲しい。節は喉頭結核を発病、結核菌が肺に転移し咽頭結核と肺結核で苦しみ九州帝国大学の久保博士の手で加療してもらう。小説の題名「白き瓶」は節が「アララギ」に「鍼の如く」と題して発表した中の歌による。

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

この歌は絵の画讃として作ったもので絵と歌の載った雑誌「アララギ」をお土産に久保博士宅を訪れた。この歌は節の命そのものなのである。大正4年、遠く九州の地で没した。このくだりは藤沢周平が嘗て節と同じく肺結核にかかり生死の境をさまよった経験があるから迫力がある。当時、医学の知識も乏しく死病といわれた結核を治す手段は気候の良い所で転地療養をするくらいであった。節は宮崎の青島に転地療養で出かける。肺患の疑いのある客は旅館を次から次に追われて歩く。病む体で今日泊まる所を捜し求める節に藤沢周平は追体験記を書いているようで悲しい。現在は結核はかなりの確度で治るようになった。そして、結核に代わって癌に罹病すると生存率は50%といわれる。治療の術を失った癌患者は節と同じようにじっとしていられなくて転々と歩くのである。

藤沢周平著「(長塚節・初秋の歌)」

「初秋の歌」の章の名前は節の十二首の歌に付けた名前でもある。藤沢周平(著書「白き瓶」の中で)は短歌にも造詣が深いので下記のように暖かく、鋭く見つめている。「初秋の歌」は明治41年1月発行の「馬酔木」第4巻第3号に掲載された。「馬酔木」はこの号を持って終刊となったので節の「初秋の歌」は文字通り「馬酔木」の掉尾を飾る傑作となった。この歌の素晴らしさに気が付いたのは、斉藤茂吉(1882-1953)であった。茂吉は「初秋の歌」12首を読んで驚嘆しかつ興奮した。1年後の節に当てた茂吉の手紙には「フルイ付きたいほど小生は感服いたし候」と書いた。 「初秋の歌」は節の普段より一層研ぎ澄まされた感覚が捉えた初秋の実感の作品化であった。自然を媒体にして、そこに見え隠れする初秋を歌ったのである。現象から一歩踏み込んだ場所にある世界を象徴的に表現することに成功するのであった。いわばものを直視して背後にある物まで読んでしまったのである。しかも、その成功は象徴的にとらえた世界と連動することで媒体である自然そのものも躍動するという、二重の構造を持っていた。節は飽くことなく自然を凝視して来た詩人にして初めて可能な繊細かつ瑞瑞しい表現でそれを実現したのである。節の父は茨城県議会議長を勤める政治家であった。借財が多くなり家計は節と母が背負わなければならない。節に縁談があっても遅々として進まないのは借財のためらしかった。十二首の歌の中でも下記の秀作がある。
馬追虫(うまおい)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想いみるべし
この歌が出来た背景を藤沢周平は丹念に描いている。「縁談が進まないのは運命かもしれないとの諦観に、今訪れている初秋の季節のような淡いかすかな悲傷の思いだった。節は眼を挙げた。戸があいているので、ランプの光は庭まで落ちている。その庭に無数の虫の声がした。虫は部屋の中まで入り込んできて、見えない部屋の隅で、馬追いが澄んだ声を立てている。節は泣きふるえる馬追いのひげを感じ取った」またこの歌で短歌に開眼し歌の世界に入った人がいる。朝日新聞の短歌の選者・馬場あき子(かりん主宰者)である。

馬場あき子は著書『短歌その形と心』の中で「魅力ある歌と出会う」と題して以下のように記している。
 私はその後ときどき歌を作るようになりましたが、戦争も次第に激しくなり、誰に見てもらうということもなく、十七歳で敗戦を迎えました。そして本格的な「歌」そのものと出会うことになったのです。たとえばその秋『長塚節歌集』という文庫本を友人から借り、好きな歌を写ていましたが、次のような一首に出会い、目の鱗が落ちるような思いをしました。
 馬追虫(うまおひ)のひげのそよろに来る秋はまなこを閉じて思ひみるべし・・・長塚節
戦争が終わった瓦礫の焦土にも秋が来ていました。今日からは想像もできないようなひどい生活条件の中でこの歌に出会った私は、まず、こんなにも繊細な秋の感覚があったことに、澄んだ美的な陶酔を覚えました。「馬追虫のひげの」「そよろ」とした細い触角の、先鋭なこまやかな動きをありありと見せてくれる上句に驚きの念を抱きました。また、そうした微細な一点から大きな<秋>という空間への思念を広げるための、「まなこを閉じて」という、行為のやさしさを、こんなに直接的に言ってしまうことが、文字通り心のやさしさの表現となっていることにも驚きました。そして何より、一匹の虫がもっている象徴的ともいうべき形象の美しさ、小さな虫の、細かい触覚の先から広がってゆく秋の大気の気配や、静かな広い秋の空間の豊かさに、自然の営みがもっている底深いいのちのちからを感じて感動しました。 私はその後しばらく、長塚節の歌を模倣し、沢山の自然詠を作りました。どの歌にも、節の歌の気分が投影し、言葉がのりうつっていましたが、まだ誰の批判にも晒される場を持たないそれらの歌は、敗戦の秋を生きる少女の心の支えでありました。本当の自分の歌とはいえないものでしたが、写し、真似ることにことによって、歌の呼吸や、韻律の秘密が会得されていった時期で、私の歌にとって大切な温床をなす日々であったといえます。

長塚節生家の書院にて 「よく来たね」と節が現れるような気がする

長塚節生家 (門から)

垂乳根の 母が釣りたる青蚊帳の すがしといねつ たるみたれども
節が植えたノウゼンカツラが見事に咲いている