2016年12月19日月曜日

和算の算額

 桜川市真壁町の筑波山麓に天台宗の古刹「椎尾山薬王院」がある。この寺には江戸時代末期に2面の算額が奉納され現存する。

椎尾山薬王院は平安時代初期に最仙によって開基された。
天台宗の宗祖・最澄が開基した本山の比叡山に似た雰囲気である。

算額とは江戸時代の和算の研究家が数学の問題を和算で解き、巨大な絵馬のような額にして神社仏閣に奉納するものだ。
薬王院には関流の算額が1面、最星流の算額が1面が奉納されている。
いずれも、「勾股弦の定理(こうこげんのていり)」を用いて解く問題が描かれている。

 勾股弦の定理は約2000年程前の漢の時代に作られた古代中国の算術書・「九章算術」に述べられており、西洋の数学の「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」と同じ内容である。
わが国では1600年に「勾股」という和算書がまとめられた。

 算額は問題と解答が漢文で書かれているが、解答までの過程が明記されていないものが多い。そこで、ピタゴラスの定理(三平方の定理)で解き、漢文の解答と一致することを確認した。


1.関流の算額:嘉永7年7月(1854)奉納、 常州矢田部藩、嶋勇助源吉叙門人
  野村善三郎篤敬他8
92cm x 65cm

【1】右の図:[ 問 ] 全円径 1尺2寸(=12寸)、大円径 6寸のとき、小円の直径はいくらか
     [ 答 ] 小円の直径 4寸

【2】左の図:問 ] 全円径 1尺(=10寸)、大円径 6寸のとき、小円の直径はいくらか
     [ 答 ] 小円の直径3寸7分5厘


小円半径をXと置き、ピタゴラスの定理に従い方程式を建てると、X=2となる。従って小円の直径は2X = 4寸となり、算額の答えと一致する。






2.最星流の算額:弘化4年3月(1847)奉納、越後国三嶋郡、竹内弁吉義治 門人10名

103cm x 72cm

【1】右の図:[ 問 ] 乙円径 12寸とすると、大円径、甲円径はいくらか
     [ 答 ] 外円径 144寸、甲円径 36寸

【2】左の図:問 ] 外円内に勾股弦(直角三角形)と直角三角形の中に天地人の3個の円が入れてある。
       直角三角形を直径とする3つの円を描く。天円径と人円径が得られたとして、外円径を求める術を問う。
     [ 答 ] 外円径は下記の如し





最星流Q&A2


図のように外円内に勾股弦(即ち、勾股弦を各半円の直径とする)とその内に天地人の3つの円を入れてある。天円径と人円径が与えられたとして、外円径を得る術を問う。

【術】
(1)準備:術を確認するためのテストデータを作成する
 天円と人円が与えられるという条件で外円 を求める問題であるが、勾=60、股=80、弦=100と仮に定めると直角三角形の内心円が地円となるので、地円径DはD=(勾)+(股)-(弦)=40 となる。
地円径から天円径は約15、人円径は約21となる。








(2)術(A):桜川市 椎尾山薬王院の算額
算額は漢文で書いてあるので、松崎俊雄「茨城の算額」が数式に書き直したものを用いる。

子=(√2)-1=0.41
丑=子・(天+人)÷2=7.5
寅=天・人=315
卯=√(寅・2)+丑=32.6
辰=√((卯・子)^2-寅)+子・卯=??? ルートの中が(-133.2) 実数ではない???
外円径=[1÷{(卯÷寅)・丑÷2}]÷辰=

 「辰」が求められない。その原因は、算額に記されている「術」か、松崎俊雄「茨城の算額」に記された数式かのどらかに誤りがるように思える。

(3)術(B):笠間市 香取小原神社の算額
まったく同じ問題が、笠間市(旧友部町)坂場の香取小原神社に奉納されていることが分かった。昭和2年(1927年)に内原の横田春雄氏が【問】と【術】を記している。
【術】は松崎俊雄「茨城の算額」に数式に書き直したものがあることを発見したので、この式を使用する。

但し薬王院の算額の「人」は小原神社の算額では「地」と名付けてある。

公=√((天径)・(地径))=17.7
侯=公・2+(地径)+(天径)=71.5
伯={1.5-(方傾斜)}・侯=(1.5-√2)・侯=6.1
子=√((伯+2公)・伯)+公+伯=39.9
男={子ー(地径)}÷√(子・(地径))=0.7
外円径=[子÷{男÷(男+2)^2・32-男^2}]*8=125.5

外円径=125.5 はリーゾナブルな値と思われる。即ち、小原神社の横田春雄氏が記した【術】は正しいと思われる。


   小原神社の算額の【術】               小原神社の算額の【問】





本小文を執筆するにあたり、松崎俊雄「茨城の算額」筑波書林 を参考にさせて頂いた。

2016年4月30日土曜日

茨城県名発祥のまち・石岡

茨城県という県名は常陸風土記の「茨城の郡」に因むことは間違いがない。
JR石岡駅の前に「茨城県名発祥のまち」の看板が立っている。


  常陸風土記では茨城郡は常陸国の中心で、常陸府中(現在の茨城県石岡市)周辺を指した。常陸府中には常陸国衙(こくが)、国分寺、国分尼寺、茨城廃寺、茨城国造を埋葬した舟塚山古墳等がある。

 茨城廃寺は7世紀の後半、奈良時代以前に建立された寺で、国分寺・国分尼寺より古い寺である。
 発掘調査の結果、茨城廃寺跡から「茨木寺」「茨寺」等と墨書された土器が発掘された。

 
 この地方を常陸風土記では「茨城の郡」と記した根拠の一つであることが分かる。


茨城廃寺跡から「茨木寺」「茨寺」等と墨書された土器が発掘された。

 

なお、常陸風土記の茨城郡の条には次のような言い伝えが記述されている。以下は石岡市教育委員会が石岡市茨城(ばらき)に立てた解説板を書き取ったもの。
『昔、この辺りには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが、山の斜面やがけなどの穴を掘って住んでいた。里人のすきをうかがっては、多くの仲間を率いて、食物や着物を奪ったりすることから、付近の里人は大変困っていた。そこで、黒坂命(みこと)という人が、土ぐも退治にのり出し、土ぐもらが穴から出ているときを見はからって、野茨で穴の入り口をふさいで城(柵)を作ってしまった。そして、山野に出ていた土ぐもを攻撃したところ、土ぐもたちは、いつものように穴にもぐりこもうとして、茨に突き当ったり、引っかかったりして傷を負い、山の佐伯、野の佐伯も退治されてしまった。
 茨で城(柵)を作って土ぐもを退治したことから、この辺りを茨城と呼ぶようになったというものである。』


 明治の廃藩置県の際に、常陸国の中心の「茨城郡」の名前を県名にしたという単純な事ではなさそうである。

 1590年(天正18年)、佐竹氏と常陸府中(石岡)を本拠とする大掾(だいじょう)氏が対峙し、勝利した佐竹氏は戦利品として「茨城郡」という名称を持ち帰った。この時より、水戸は「茨城郡」、常陸府中(現在の石岡)は「新治郡」となった。(正式には、「太閤検地」でオーソライズされた)

 したがって、廃藩置県で水戸が県庁所在地になる際は、水戸が所属した茨城郡に因んで「茨城」という県名が付けられた。