馬追虫(うまおい)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉じて想いみるべし
この歌が出来た背景を藤沢周平は丹念に描いている。「縁談が進まないのは運命かもしれないとの諦観に、今訪れている初秋の季節のような淡いかすかな悲傷の思いだった。節は眼を挙げた。戸があいているので、ランプの光は庭まで落ちている。その庭に無数の虫の声がした。虫は部屋の中まで入り込んできて、見えない部屋の隅で、馬追いが澄んだ声を立てている。節は泣きふるえる馬追いのひげを感じ取った」またこの歌で短歌に開眼し歌の世界に入った人がいる。朝日新聞の短歌の選者・馬場あき子(かりん主宰者)である。
馬場あき子は著書『短歌その形と心』の中で「魅力ある歌と出会う」と題して以下のように記している。
私はその後ときどき歌を作るようになりましたが、戦争も次第に激しくなり、誰に見てもらうということもなく、十七歳で敗戦を迎えました。そして本格的な「歌」そのものと出会うことになったのです。たとえばその秋『長塚節歌集』という文庫本を友人から借り、好きな歌を写ていましたが、次のような一首に出会い、目の鱗が落ちるような思いをしました。
馬追虫(うまおひ)のひげのそよろに来る秋はまなこを閉じて思ひみるべし・・・長塚節
戦争が終わった瓦礫の焦土にも秋が来ていました。今日からは想像もできないようなひどい生活条件の中でこの歌に出会った私は、まず、こんなにも繊細な秋の感覚があったことに、澄んだ美的な陶酔を覚えました。「馬追虫のひげの」「そよろ」とした細い触角の、先鋭なこまやかな動きをありありと見せてくれる上句に驚きの念を抱きました。また、そうした微細な一点から大きな<秋>という空間への思念を広げるための、「まなこを閉じて」という、行為のやさしさを、こんなに直接的に言ってしまうことが、文字通り心のやさしさの表現となっていることにも驚きました。そして何より、一匹の虫がもっている象徴的ともいうべき形象の美しさ、小さな虫の、細かい触覚の先から広がってゆく秋の大気の気配や、静かな広い秋の空間の豊かさに、自然の営みがもっている底深いいのちのちからを感じて感動しました。 私はその後しばらく、長塚節の歌を模倣し、沢山の自然詠を作りました。どの歌にも、節の歌の気分が投影し、言葉がのりうつっていましたが、まだ誰の批判にも晒される場を持たないそれらの歌は、敗戦の秋を生きる少女の心の支えでありました。本当の自分の歌とはいえないものでしたが、写し、真似ることにことによって、歌の呼吸や、韻律の秘密が会得されていった時期で、私の歌にとって大切な温床をなす日々であったといえます。
長塚節生家の書院にて 「よく来たね」と節が現れるような気がする |
長塚節生家 (門から) |
垂乳根の 母が釣りたる青蚊帳の すがしといねつ たるみたれども |
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