本文は後藤道雄先生(茨城県文化財保護審議会委員)の仏像研究講座の受講ノートを基にまとめたものです。
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法隆寺 釈迦三尊像
(著作権期限満了の写真を使用させていただいた) |
法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊像は聖徳太子の没年(622年)の前年に膳夫人たちによって聖徳太子の病気平癒を願い造像を発願され、623年に造像された。従って、釈迦三尊像は聖徳太子のシンボル的な存在として法隆寺の1400年の星霜を見てきた。
仏教美術史・歴史学・建築史・考古学・瓦の研究・古文書学・年輪年代学などの学際的な研究の成果により、聖徳太子が創建した法隆寺の歴史が明確になってきた。
1.現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半から8世紀初に再建された
(1)法隆寺西院伽藍の金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は年輪年代法により650年代から690年代末に伐採されたことが明らかになった。
(2)「西院資材帳(天平十九年・747年作成)」によると、五重塔に塔本塑像がつくられたのが 和銅四年(711年)で、またこの年には中門の仁王像も造られた。つまり、再建された西院は長い年月を経てこの頃にほぼ完成したことになる。
(3) 平安時代に記された『七大寺年表』には和銅年間(708年~715年)に法隆寺は再建されたとある。
2.法隆寺の創建
通説によれば、聖徳太子は推古天皇9年(601年)、斑鳩の地に上宮王家の住居として斑鳩宮を建てた。そして、この斑鳩宮の南側に法隆寺を創建した。
現存する法隆寺と混同しないように若草伽藍と呼ぶことにする。この若草伽藍は聖徳太子が22歳のとき、594年に作り始めた。(「聖徳太子伝古今目録抄」) 594年という年には現在の法隆寺の五重塔の芯柱が伐採された年である。若草伽藍の創建が古文書研究と年輪年代法の科学的な研究結果が一致した画期的なことである。
3.法隆寺非再建・再建論
水戸藩彰考館の最後の総裁・菅政友(1824-1897)が口火を切り、法隆寺非再建・再建論争が起こったが、下記のような事実から現法隆寺は再建されたことが明確になった。
(1)日本書紀によれば、若草伽藍は天智天皇9年(670年)に火災に遭い、「一屋余すところなく焼失した」とある。
(2)昭和14年(1939年)、石田茂作によって若草伽藍の遺跡が発掘された。この遺跡は聖徳太子が建立した四天王寺式伽藍配置(南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ配置)である。
(3)若草伽藍の遺跡から膨大な瓦が発掘された。瓦の形から推古天皇15年(607年)のころの創建と判明した。これらの瓦は飛鳥の豊浦寺や飛鳥寺の瓦工の集団によって作られたことが考古学や瓦学から明らかになった。
4.東院伽藍の創建
八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は天平10年(738年)ごろ、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立した。現在は聖徳太子等身仏の救世観音立像(推古天皇31年(623年)建立)が安置されている。
5.法隆寺の歴史を見てきた釈迦三尊像
(1)釈迦三尊像光背銘によると、上宮王家の膳夫人・王子達は聖徳太子の病気平癒を願い釈迦像の造像を発願し、釈迦三尊像は聖徳太子が歿した622年の翌年、推古天皇31年(623年)に聖徳太子の冥福を祈って作られた。作者は飛鳥仏と同じく、渡来系の仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)である。
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北方建物は出土した瓦から607年~639年に建立されたと推測される |
(2)聖徳太子の「尺寸王身」即ち等身仏である釈迦三尊像が安置されていたのは、聖徳太子が創建した若草伽藍の中であると思われるが670年に「一屋余すところなく焼失した」と日本書紀は記しており、若草伽藍であれば今日、釈迦三尊像を拝むことは出来ない。幸運なことに、釈迦三尊像は若草伽藍の北方、現在の法隆寺の金堂の東北の位置に北方建物があり、ここに安置されていた。なお、若草伽藍の本尊は聖徳太子が父・用明天皇の供養のために造像した薬師如来坐像である。しかし、この薬師如来坐像は670年に若草伽藍とともに焼失したと思われ、現存はしない。
(3)明治11年に法隆寺から皇室に献納され、東京国立博物館が保管している「国宝・竜首水瓶(7世紀製)」の胴部に「北堂丈六貢高1尺六寸」の墨書銘がある。通光坐高(台座の下から光背の上まで)が丈六の仏像は法隆寺には釈迦三尊像のみなので、釈迦三尊像は北堂、即ち、北方建物に安置されていたことが明白になった。
(4)北方建物は若草伽藍が創建された直後に聖徳太子を祀るために建立された。(607年~639年の期間)
若草伽藍の付属施設のような形で、若草伽藍の塔・金堂の延長線上に建てられた。(図参照)
なお、若草伽藍の塔・金堂が北に向かって直線状に配置されているが、この伽藍配置は、聖徳太子が同時期に建立した四天王寺伽藍と同じである。なお、現在の西院伽藍は中門から見て右に金堂、左に五重塔の配置になっている。これは百済大寺の伽藍配置に倣ったものである。
瓦の形からも若草伽藍・北方建物・法隆寺西院伽藍の順に新しくなっている。
(5)北方建物に安置された釈迦三尊像の台座(「宣」の字の構造なので宣字座という)は法隆寺金堂に現在も存在する。宣字座の構造から、驚くべき発見が最近あった。即ち、現在、釈迦三尊像に向かって右側(東の間)には現在の薬師如来像ではなく、玉虫厨子が設置され、向かって左側(西の間)には現在の阿弥陀如来ではなく、夢殿の救世観音立像が設置されていたことが明白になった。救世観音立像も玉虫厨子も設置部の構造が宣字座の設置部構造と完全に一致したのである。
(6)救世観音立像も法隆寺を代表する仏像であり、聖徳太子の等身仏である。建立は釈迦三尊像と同時期(623年頃)で聖徳太子の冥福を祈って止利系の仏師により作られた。
江戸時代までは絶対秘仏であったが、1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉天心により法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像が発見された。天心はこの発見を「一生の最快事」と呼んだ。日本の文化財行政の幕開けを告げる出来事として語られている。現代の仏像研究の原点となった仏像である。
(7)法隆寺金堂が建立され、本尊・釈迦三尊像は宣字座とともに北方建物から金堂に移された。この際、聖徳太子にゆかりの深い救世観音像は法隆寺東院の夢殿の本尊となった。玉虫厨子も台座から外されて金堂内に安置されたが、現在は西院内の大宝蔵院に安置されている。
(8)現在は金堂の中央の釈迦三尊像の左側(即ち、向かって右側:東の間)には薬師如来像、右側(即ち、向かって左側:西の間)には阿弥陀如来像が安置されている。
薬師如来像は元々は若草伽藍の金堂の本尊として607年ころ建立されたが、670年に灰燼に帰している。従って、現在の金堂の薬師如来坐像や阿弥陀如来像(鎌倉時代作)から聖徳太子在世前後の法隆寺を論ずることは過ちである。われわれは釈迦三尊像にのみ注目すべきである。
6.『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を聖徳太子が著し推古天皇に講ず
(1)聖徳太子が著した『三経義疏』は『法華義疏』(伝推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称であり、それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三教の注釈書である。
(2)聖徳太子は岡本宮(現在の法起寺のところ)で法華経など三経義疏を推古天皇や上宮王家の人々に講じた。これに深く感動された推古天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを若草伽藍創建のために布施した。( 『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100町)
(3)播磨国に法隆寺の荘園があった。兵庫県太子町斑鳩寺には「聖徳太子勝鬘経講讃図」がある。
(4)三教義疏は聖徳太子の真筆、他の2つの義疏は後世の写本といわれている。
7.五重塔の問題
(1)法隆寺の歴史を見てきた。
1)法隆寺は先ず、若草伽藍が推古天皇15年(607年)のころ聖徳太子による創建。
2)ほぼ同時に、北方建物が建立され釈迦三尊像・救世観音像・玉虫厨子が安置される。
3)天智天皇9年(670年)に若草伽藍は一屋余すところなく灰燼に帰した。
4)現存する法隆寺西院伽藍は7世紀後半から8世紀初ころ建立された。
(2)ところが、法隆寺西院伽藍の五重塔の芯柱は年輪年代法から594年に伐採されたことが判明した。若草伽藍が創建される以前から現在の西院伽藍の位置に五重塔があったのだろうか。
(3)五重塔といっても芯柱のみの殺柱塔として建立され、西院伽藍が整備される際に、五重の層から成る五重塔が完成したということが通説となった。
8.釈迦三尊像光背銘および台座
釈迦三尊像の舟形光背の裏面に196文字の銘文がある。下記Webページには拓本がある。
銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日(622年2月22日)などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となっている。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古である。
漢文で記された銘文の口語訳を上記Webページから転記した。
1)法興のはじめより31年、つまり推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が崩じた。
2)翌年(622年)正月22日、聖徳太子が病に伏し、気も晴れなかった。
3)さらに、聖徳太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。
4)そこで膳夫人・王子たち(山背大兄王ら)は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。
5)「三宝の仰せに従い、聖徳太子と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」と。
6)しかし、2月21日、膳夫人が崩じ、翌日、聖徳太子も崩じた。
7)そして、推古天皇31年(623年)3月に、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背と台座)を造りおえた。
8)この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、聖徳太子の生母・聖徳太子・膳夫人に従い、仏教に帰依して、ともに悟りに至り、
9)六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。
10)この像は鞍作止利に造像させた。
上記 5)の原文には聖徳太子の「往登浄土」のために造立したことが明記してある。このことは法華経の霊鷲山浄土であることを意味している。この銘文の趣旨を踏まえて、釈迦如来台座では下座に須弥山世界図、上座には霊鷲山浄土図の表現が行われている。
聖徳太子や上宮王家の人々の中には法華経の真髄を理解していることが分かる。かくして、釈迦三尊像は7世紀前半には仏教文化の最高のモニュメントとなっていた。
9.現在の法隆寺を建てたのはだれか
昭和47年(1972年)梅原猛氏は著書『隠された十字架』の中で法隆寺を上宮王家の子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じ込める鎮魂の寺という説を主張した。
怨霊信仰は法隆寺が再建された奈良時代初期にはなかったということで、歴史学の研究者の間では、梅原氏の主張に批判的であった。
法隆寺西伽藍の再建が完了したのは711年とすると誰が法隆寺を再建したのだろうか。
(1)聖徳太子は622年没であり、山背大兄王たち上宮王家は643年に蘇我入鹿によって滅ぼされている。
(2)一方、蘇我入鹿は645年、乙巳の変で中大兄皇子と藤原鎌足により暗殺、父・蘇我蝦夷も同年死んで蘇我宗家は滅亡した。
八世紀初頭に法隆寺を再建できる仏教に信仰が厚く、政治力、経済力を有するのは誰か。想像してみた。
1)県犬養三千代(665-733)
藤原不比等の夫人である県犬養三千代の影響があると思う。現在の法隆寺大宝蔵院に「伝橘夫人念持仏(阿弥陀如来三尊像)」が収められている。また、県犬養三千代の子である光明子(聖武天皇の后・光明皇后)は法隆寺西円堂を建立した。
2)道昭(629-700)
道昭は遣唐使として653年に入唐し玄奘三蔵の弟子となって、法相教学を学び、660年頃に帰朝した。日本法相教学の初伝となった碩僧。行基の師でもあり、土木工事にも活躍した。
3)聖武天皇(701-756)・光明皇后(701-760)
聖武天皇・光明皇后は東大寺、法華寺、新薬師寺を建立し、全国に国分寺・国分尼寺を建立した。聖武天皇の在位は724-749年であり、法隆寺再建が711年頃とすると直接は関わっていないかもしれないが、法隆寺が再建されていく姿を見ていたに違いない。聖武天皇の時代は仏教が最も華やかに花開いたときである。平城京遷都に伴い、興福寺(710)、元興寺(718)、薬師寺(718)が平城京に移築され、728年には東大寺の起源となる金鍾寺が聖武天皇により建立された。
4)藤原不比等(659-720)
7世紀後半から8世紀前半にかけて、抜群の政治力、経済力を有したのは藤原不比等である。娘宮子は聖武天皇の母であり、光明皇后は不比等と県犬養三千代(橘美千代)の間に生まれた娘である。権力者が権力を行使するには大義名分が必要である。その大義名分は「仏教に篤く帰依し、仏教による国家鎮護を根本理念とする」ことであったと思う。
不比等の眼には日本仏教の精神的な主柱である聖徳太子が創建した若草伽藍は670年に焼滅して、北方建物だけが立っている情景が映ったに違いない。そして、北方建物の中には聖徳太子に最も関係が深く仏教文化の最高のモニュメントといわれる釈迦三尊像を本尊とし、同じく聖徳太子の等身仏といわれる救世観音立像と玉虫厨子が安置されている。
法隆寺を再建しこれら三体を金堂に安置して、聖徳太子を供養することで不比等の大義名分は成就した。
5) 天武天皇(?-686)・持統天皇(645-703)
奈良芸術短大の前園実知雄教授は「天武・持統天皇が援助したことは間違いない」との説を述べている。(朝日新聞2016-4-17 )