2014年3月31日月曜日

わが心の歎異抄 

  
 私は天台宗の寺の檀家として二十数年間、世話人をしている。天台宗の開宗1200年の年に比叡山から法名をもらった。「叡文」という。叡文坊になったのである。しかし、わが家の書棚は最澄よりも親鸞に関する本が多い。笠原一男、赤松俊秀、梅原猛、増谷文雄の本に混じって今井雅晴著「親鸞とその家族」や「わが心の歎異抄」等がある。

 ・ 歎異抄の魅力
 高校生の時に父に倉田百三の「出家とその弟子」を買ってもらった。父はこの本を知らなかったようで「歎異抄」の焼き直しと言ったら、即、買ってくれた記憶がある。
出家が弟子に話す優しい言葉に惹かれた。友人の母親に貸したら「暗い感じの本」という読後感であった。「わかっていないな」と密かに思った。大学に入って初めて「歎異抄」を読んだ。古文で記した文章は慣れていないこともあって殆ど理解できなかった。しかし、簡潔な文体の名文である歎異抄の不思議な魅力に惹かれ、時々思い出しては手にとって見るようになって40数年になる。

・ 往相回向・還相回向
 歎異抄から見える親鸞の思想は、「悪人正機説」と「二種回向」である。「悪人正機説」は第3章に明記されていて、歎異抄の中でも最も有名な文である。一方、「二種回向」は往相回向・還相回向を指す。往相とは弥陀誓願不思議によって浄土に往生すること、還相とは再びこの世に還り来て、この世の人々を救わんとすることである。
親鸞の主著「教行信証(国宝)」では往相回向・還相回向がセントラルドグマであるという。
「歎異抄」では「二種回向」は明確ではないが、精読すると、第4章に「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」、第5章に「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道、四生のあいだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなり。」と記されており、親鸞は唯円に真宗のセントラルドグマを伝えている。
 「二種回向」の考えは縄文時代から日本人の心の底に植え付けられている「人間は死ぬと近くの山に行き、やがて、再びこの世に生まれ変わる」という死生観と合致するところが大きい。
 親鸞は九歳で比叡山に入ってから約20年間修行する。親鸞にとって比叡山は母なる山である。親鸞は「天台本覚思想」の醸し出す雰囲気の中で修行したと思う。
「山川草木悉皆成仏」の考えは少なからず親鸞に影響を与えた。「天台本覚思想」は日本人の心底に響くものがあり日本の仏教の根本的な思想となっている。
 即ち、日本の仏教は縄文時代から流れる日本人のこころを包み込み、そして親鸞の
往相回向・還相回向はその流れの中にある。

 親鸞の言葉を聞語りとしてまとめた唯円の「歎異抄」は縄文時代からの日本人の心の原風景を反映したものである。だからこそ、親鸞の思想のエッセンスを格調高く名文でまとめた「歎異抄」は日本人の琴線に触れて愛読され続けるのである。

 歎異抄の著者・唯円開基の報仏寺
報仏寺は水戸市河和田にある。枝垂桜が見事である。

唯円開基の大きな碑


法喜山泉渓院報仏寺 浄土真宗のお寺である






青春の詩

山形大学工学部のキャンパスには明治43年に創立された旧制米沢高等工業学校本館(国重文指定)がある。そして、その校舎の前に「青春」の碑がある。同校講師・岡田 義夫氏の邦訳した詩である。

「青春」の詩碑


                    詩碑建立の記
「青春」の詩碑

旧制米沢高等工業の本館


青春の詩
原作 サミュエル・ウルマン
邦訳 岡田 義夫

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易をを振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いが来る。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に青春はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月
の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く 驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に対處する剛毅な挑戦、小児の
如く求めて止まらぬ探求心、人生への歓喜と興味。
  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
  希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽い
つくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて、神の憐みを乞うる他はなくなる。

YOUTH
Samuel Ullmann

Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination,
a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure
over love ease.

No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old only by deserting their
ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt ,
self-distrust, fear and despair-these are the long ,long years that bow the head and turn the
growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen, there is in every being's heart the love of wonder, the sweet
amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undoubted challenge of
events, the unfailling childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.


you are yang as your faith, as old as doubt ;
as young as your self-confidence, as old as your fear;
as young as your hope, as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the
earth, from man and from the Infinite so long as your young.

When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of
pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on
your soul.

2014年3月29日土曜日

方丈記を読む

玄侑宗久氏の「無常という力」(副題が「方丈記に学ぶ心の在り方」)という本を読みました。

”ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず”という名文ではじまる方丈記に最初に出会ったのは、高校1年の夏休みの課外授業のときでした。
先生が朗々と読み上げる名文に(中学を卒業したばかりのイガクリ頭では理解することは困難でしたが)、このような世界があるのかと大いに心酔しました。

2回目の出会いは3年前、大震災が起こる前でした。
放送大学の島内裕子先生の「日本文学の読み方」という講座で鴨長明に邂逅しました。
隠遁した坊さんの単なる随筆ではないという講師の説明に接し、方丈記の原文が読みたくなり、岩波の古典文学大系を夢中になって読みました。
大火、辻風(=竜巻)、震災、福原への遷都、飢饉などなどが克明に書いてあり、方丈記は「災害記」であることが分かりました。そして、底に流れる無常ということです。
やがて、2011年3月11日の大震災が発生しました。私は真っ先に方丈記を開きました。

3回目は今回の玄侑氏の方丈記です。
玄侑氏は福島県三春町の福聚寺の住職ですが、私は玄侑氏が副住職のときに福聚寺でお会いしたことがあり、親しみを感じる住職です。芥川賞作家であり、東日本大震災復興構想会議委員として超多忙な方です。
長明が経験した平安末期・鎌倉期の大災害に勝るとも劣らない今回の災害の中心地フクシマで玄侑氏は追体験しているのですね。
長明は他力本願の浄土系の坊さんであり、玄侑氏は京都・天竜寺で修行した臨済宗の禅僧ですから立場は異なりますが、桑門同士心通じ合うところは大いにあるようです。
長明を最初に評価したのは夏目漱石(および門下生の内田百閒)といわれてますが、現代では長明を最も理解しているのは玄侑氏であると思います。

昨日のメールに対しちょっと補足します。
鴨長明は方丈記で名を残しましたが、元来は歌人であり、『新古今和歌集』の編纂者です。自らの歌も『千載和歌集』に一首、『新古今和歌集』に十首入集しています。
鎌倉に下向して、3代将軍・実朝とも面談しました。(ご存知のように実朝は歌人でもありました。)
長明は歌人としての矜持を胸の底に抱き続けた人生を送ったと思います。
しかし、方丈記には歌人としての話は一切出てきません。災害記と閑居記に的を絞って方丈記を書き上げました。そこに方丈記のすごさがあると思います。

さて、方丈記は「序文」・「五大災厄」・「草庵生活」・「跋文」の4部構成です。

”ゆく河の流れは絶えずして・・・”の序文は有名ですが、玄侑氏は「跋文」に力点を置いて解説しております。

長明は世捨て人として草庵での生活のよさを述べていたのですが、「跋文」ではこれらの閑居生活は愚かな間違いではないか、と自己批判します。
「方丈の庵での生活を愛し、閑居に拘るのは仏様が否定している執着そのものではないか。つまり、往生の妨げではないか、そもそも、お前は修行しようとして出家遁世したのではないか」と激しくおのれを責め立てます。

自己批判はさらに続きます。
「おまえは出世したくせに、その心の有様はどうだ。このひどい体たらくは、前世の業の報いなのか、煩悩の故に正気を失った正なのか?」

長明は、この自問に答えることが出来なかった、と吐露しています。
「不請阿弥陀仏、両三遍申してやまぬ(ただ、なんとか舌の力を借りて、お救い下さる阿弥陀仏の御名を、二、三度唱えただけである)」で方丈記は終わっています。

玄侑氏は「長明は阿弥陀様の本願を信じて二、三回、”南無阿弥陀仏”とあいさつした。他力の教えに近づいた。」と評価しています。

放送大学の島内裕子先生は長明が自己批判に答えられなかったことに対して、「長明の自己に対する誠実な姿勢の表れでなくてなんであろう。」と学者としての意見を述べております。

私は方丈記の中に『往生要集』があることに気がつきました。この本は恵心僧都・源信が著した浄土教のバイブルです。この流れに沿って、法然や親鸞が浄土宗・浄土真宗を立ち上げました。
長明もまた、機を同じくして、浄土教の流れの中で自己を進化していったものと思います。