玄侑宗久氏の「無常という力」(副題が「方丈記に学ぶ心の在り方」)という本を読みました。
”ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず”という名文ではじまる方丈記に最初に出会ったのは、高校1年の夏休みの課外授業のときでした。
先生が朗々と読み上げる名文に(中学を卒業したばかりのイガクリ頭では理解することは困難でしたが)、このような世界があるのかと大いに心酔しました。
2回目の出会いは3年前、大震災が起こる前でした。
放送大学の島内裕子先生の「日本文学の読み方」という講座で鴨長明に邂逅しました。
隠遁した坊さんの単なる随筆ではないという講師の説明に接し、方丈記の原文が読みたくなり、岩波の古典文学大系を夢中になって読みました。
大火、辻風(=竜巻)、震災、福原への遷都、飢饉などなどが克明に書いてあり、方丈記は「災害記」であることが分かりました。そして、底に流れる無常ということです。
やがて、2011年3月11日の大震災が発生しました。私は真っ先に方丈記を開きました。
3回目は今回の玄侑氏の方丈記です。
玄侑氏は福島県三春町の福聚寺の住職ですが、私は玄侑氏が副住職のときに福聚寺でお会いしたことがあり、親しみを感じる住職です。芥川賞作家であり、東日本大震災復興構想会議委員として超多忙な方です。
長明が経験した平安末期・鎌倉期の大災害に勝るとも劣らない今回の災害の中心地フクシマで玄侑氏は追体験しているのですね。
長明は他力本願の浄土系の坊さんであり、玄侑氏は京都・天竜寺で修行した臨済宗の禅僧ですから立場は異なりますが、桑門同士心通じ合うところは大いにあるようです。
長明を最初に評価したのは夏目漱石(および門下生の内田百閒)といわれてますが、現代では長明を最も理解しているのは玄侑氏であると思います。
昨日のメールに対しちょっと補足します。
鴨長明は方丈記で名を残しましたが、元来は歌人であり、『新古今和歌集』の編纂者です。自らの歌も『千載和歌集』に一首、『新古今和歌集』に十首入集しています。
鎌倉に下向して、3代将軍・実朝とも面談しました。(ご存知のように実朝は歌人でもありました。)
長明は歌人としての矜持を胸の底に抱き続けた人生を送ったと思います。
しかし、方丈記には歌人としての話は一切出てきません。災害記と閑居記に的を絞って方丈記を書き上げました。そこに方丈記のすごさがあると思います。
さて、方丈記は「序文」・「五大災厄」・「草庵生活」・「跋文」の4部構成です。
”ゆく河の流れは絶えずして・・・”の序文は有名ですが、玄侑氏は「跋文」に力点を置いて解説しております。
長明は世捨て人として草庵での生活のよさを述べていたのですが、「跋文」ではこれらの閑居生活は愚かな間違いではないか、と自己批判します。
「方丈の庵での生活を愛し、閑居に拘るのは仏様が否定している執着そのものではないか。つまり、往生の妨げではないか、そもそも、お前は修行しようとして出家遁世したのではないか」と激しくおのれを責め立てます。
自己批判はさらに続きます。
「おまえは出世したくせに、その心の有様はどうだ。このひどい体たらくは、前世の業の報いなのか、煩悩の故に正気を失った正なのか?」
長明は、この自問に答えることが出来なかった、と吐露しています。
「不請阿弥陀仏、両三遍申してやまぬ(ただ、なんとか舌の力を借りて、お救い下さる阿弥陀仏の御名を、二、三度唱えただけである)」で方丈記は終わっています。
玄侑氏は「長明は阿弥陀様の本願を信じて二、三回、”南無阿弥陀仏”とあいさつした。他力の教えに近づいた。」と評価しています。
放送大学の島内裕子先生は長明が自己批判に答えられなかったことに対して、「長明の自己に対する誠実な姿勢の表れでなくてなんであろう。」と学者としての意見を述べております。
私は方丈記の中に『往生要集』があることに気がつきました。この本は恵心僧都・源信が著した浄土教のバイブルです。この流れに沿って、法然や親鸞が浄土宗・浄土真宗を立ち上げました。
長明もまた、機を同じくして、浄土教の流れの中で自己を進化していったものと思います。
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