2016年4月30日土曜日

茨城県名発祥のまち・石岡

茨城県という県名は常陸風土記の「茨城の郡」に因むことは間違いがない。
JR石岡駅の前に「茨城県名発祥のまち」の看板が立っている。


  常陸風土記では茨城郡は常陸国の中心で、常陸府中(現在の茨城県石岡市)周辺を指した。常陸府中には常陸国衙(こくが)、国分寺、国分尼寺、茨城廃寺、茨城国造を埋葬した舟塚山古墳等がある。

 茨城廃寺は7世紀の後半、奈良時代以前に建立された寺で、国分寺・国分尼寺より古い寺である。
 発掘調査の結果、茨城廃寺跡から「茨木寺」「茨寺」等と墨書された土器が発掘された。

 
 この地方を常陸風土記では「茨城の郡」と記した根拠の一つであることが分かる。


茨城廃寺跡から「茨木寺」「茨寺」等と墨書された土器が発掘された。

 

なお、常陸風土記の茨城郡の条には次のような言い伝えが記述されている。以下は石岡市教育委員会が石岡市茨城(ばらき)に立てた解説板を書き取ったもの。
『昔、この辺りには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが、山の斜面やがけなどの穴を掘って住んでいた。里人のすきをうかがっては、多くの仲間を率いて、食物や着物を奪ったりすることから、付近の里人は大変困っていた。そこで、黒坂命(みこと)という人が、土ぐも退治にのり出し、土ぐもらが穴から出ているときを見はからって、野茨で穴の入り口をふさいで城(柵)を作ってしまった。そして、山野に出ていた土ぐもを攻撃したところ、土ぐもたちは、いつものように穴にもぐりこもうとして、茨に突き当ったり、引っかかったりして傷を負い、山の佐伯、野の佐伯も退治されてしまった。
 茨で城(柵)を作って土ぐもを退治したことから、この辺りを茨城と呼ぶようになったというものである。』


 明治の廃藩置県の際に、常陸国の中心の「茨城郡」の名前を県名にしたという単純な事ではなさそうである。

 1590年(天正18年)、佐竹氏と常陸府中(石岡)を本拠とする大掾(だいじょう)氏が対峙し、勝利した佐竹氏は戦利品として「茨城郡」という名称を持ち帰った。この時より、水戸は「茨城郡」、常陸府中(現在の石岡)は「新治郡」となった。(正式には、「太閤検地」でオーソライズされた)

 したがって、廃藩置県で水戸が県庁所在地になる際は、水戸が所属した茨城郡に因んで「茨城」という県名が付けられた。

2015年7月28日火曜日

法隆寺の1400年の歴史を見てきた釈迦三尊像

本文は後藤道雄先生(茨城県文化財保護審議会委員)の仏像研究講座の受講ノートを基にまとめたものです。
法隆寺 釈迦三尊像
(著作権期限満了の写真を使用させていただいた)

 法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊像は聖徳太子の没年(622年)の前年に膳夫人たちによって聖徳太子の病気平癒を願い造像を発願され、623年に造像された。従って、釈迦三尊像は聖徳太子のシンボル的な存在として法隆寺の1400年の星霜を見てきた。
 仏教美術史・歴史学・建築史・考古学・瓦の研究・古文書学・年輪年代学などの学際的な研究の成果により、聖徳太子が創建した法隆寺の歴史が明確になってきた。

1.現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半から8世紀初に再建された
(1)法隆寺西院伽藍の金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は年輪年代法により650年代から690年代末に伐採されたことが明らかになった。
(2)「西院資材帳(天平十九年・747年作成)」によると、五重塔に塔本塑像がつくられたのが 和銅四年(711年)で、またこの年には中門の仁王像も造られた。つまり、再建された西院は長い年月を経てこの頃にほぼ完成したことになる。
(3) 平安時代に記された『七大寺年表』には和銅年間(708年~715年)に法隆寺は再建されたとある。

2.法隆寺の創建
 通説によれば、聖徳太子は推古天皇9年(601年)、斑鳩の地に上宮王家の住居として斑鳩宮を建てた。そして、この斑鳩宮の南側に法隆寺を創建した。
 現存する法隆寺と混同しないように若草伽藍と呼ぶことにする。この若草伽藍は聖徳太子が22歳のとき、594年に作り始めた。(「聖徳太子伝古今目録抄」) 594年という年には現在の法隆寺の五重塔の芯柱が伐採された年である。若草伽藍の創建が古文書研究と年輪年代法の科学的な研究結果が一致した画期的なことである。

3.法隆寺非再建・再建論
 水戸藩彰考館の最後の総裁・菅政友(1824-1897)が口火を切り、法隆寺非再建・再建論争が起こったが、下記のような事実から現法隆寺は再建されたことが明確になった。
(1)日本書紀によれば、若草伽藍は天智天皇9年(670年)に火災に遭い、「一屋余すところなく焼失した」とある。
(2)昭和14年(1939年)、石田茂作によって若草伽藍の遺跡が発掘された。この遺跡は聖徳太子が建立した四天王寺式伽藍配置(南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ配置)である。
(3)若草伽藍の遺跡から膨大な瓦が発掘された。瓦の形から推古天皇15年(607年)のころの創建と判明した。これらの瓦は飛鳥の豊浦寺や飛鳥寺の瓦工の集団によって作られたことが考古学や瓦学から明らかになった。

4.東院伽藍の創建
 八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は天平10年(738年)ごろ、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立した。現在は聖徳太子等身仏の救世観音立像(推古天皇31年(623年)建立)が安置されている。

5.法隆寺の歴史を見てきた釈迦三尊像

(1)釈迦三尊像光背銘によると、上宮王家の膳夫人・王子達は聖徳太子の病気平癒を願い釈迦像の造像を発願し、釈迦三尊像は聖徳太子が歿した622年の翌年、推古天皇31年(623年)に聖徳太子の冥福を祈って作られた。作者は飛鳥仏と同じく、渡来系の仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)である。
北方建物は出土した瓦から607年~639年に建立されたと推測される

(2)聖徳太子の「尺寸王身」即ち等身仏である釈迦三尊像が安置されていたのは、聖徳太子が創建した若草伽藍の中であると思われるが670年に「一屋余すところなく焼失した」と日本書紀は記しており、若草伽藍であれば今日、釈迦三尊像を拝むことは出来ない。幸運なことに、釈迦三尊像は若草伽藍の北方、現在の法隆寺の金堂の東北の位置に北方建物があり、ここに安置されていた。なお、若草伽藍の本尊は聖徳太子が父・用明天皇の供養のために造像した薬師如来坐像である。しかし、この薬師如来坐像は670年に若草伽藍とともに焼失したと思われ、現存はしない。
(3)明治11年に法隆寺から皇室に献納され、東京国立博物館が保管している「国宝・竜首水瓶(7世紀製)」の胴部に「北堂丈六貢高1尺六寸」の墨書銘がある。通光坐高(台座の下から光背の上まで)が丈六の仏像は法隆寺には釈迦三尊像のみなので、釈迦三尊像は北堂、即ち、北方建物に安置されていたことが明白になった。
(4)北方建物は若草伽藍が創建された直後に聖徳太子を祀るために建立された。(607年~639年の期間)
若草伽藍の付属施設のような形で、若草伽藍の塔・金堂の延長線上に建てられた。(図参照)
なお、若草伽藍の塔・金堂が北に向かって直線状に配置されているが、この伽藍配置は、聖徳太子が同時期に建立した四天王寺伽藍と同じである。なお、現在の西院伽藍は中門から見て右に金堂、左に五重塔の配置になっている。これは百済大寺の伽藍配置に倣ったものである。
瓦の形からも若草伽藍・北方建物・法隆寺西院伽藍の順に新しくなっている。
(5)北方建物に安置された釈迦三尊像の台座(「宣」の字の構造なので宣字座という)は法隆寺金堂に現在も存在する。宣字座の構造から、驚くべき発見が最近あった。即ち、現在、釈迦三尊像に向かって右側(東の間)には現在の薬師如来像ではなく、玉虫厨子が設置され、向かって左側(西の間)には現在の阿弥陀如来ではなく、夢殿の救世観音立像が設置されていたことが明白になった。救世観音立像も玉虫厨子も設置部の構造が宣字座の設置部構造と完全に一致したのである。
(6)救世観音立像も法隆寺を代表する仏像であり、聖徳太子の等身仏である。建立は釈迦三尊像と同時期(623年頃)で聖徳太子の冥福を祈って止利系の仏師により作られた。
江戸時代までは絶対秘仏であったが、1884(明治17年) フェノロサ岡倉天心により法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音が発見された。天心はこの発見を「一生の最快事」と呼んだ。日本の文化財行政の幕開けを告げる出来事として語られている。現代の仏像研究の原点となった仏像である。
(7)法隆寺金堂が建立され、本尊・釈迦三尊像は宣字座とともに北方建物から金堂に移された。この際、聖徳太子にゆかりの深い救世観音像は法隆寺東院の夢殿の本尊となった。玉虫厨子も台座から外されて金堂内に安置されたが、現在は西院内の大宝蔵院に安置されている。
(8)現在は金堂の中央の釈迦三尊像の左側(即ち、向かって右側:東の間)には薬師如来像、右側(即ち、向かって左側:西の間)には阿弥陀如来像が安置されている。
薬師如来像は元々は若草伽藍の金堂の本尊として607年ころ建立されたが、670年に灰燼に帰している。従って、現在の金堂の薬師如来坐像や阿弥陀如来像(鎌倉時代作)から聖徳太子在世前後の法隆寺を論ずることは過ちである。われわれは釈迦三尊像にのみ注目すべきである。
6.三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を聖徳太子が著し推古天皇に講ず
(1)聖徳太子が著した三経義疏『法華義疏』(伝推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称であり、それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三教の注釈書である。 
(2)聖徳太子は岡本宮(現在の法起寺のところ)で法華経など三経義疏を推古天皇や上宮王家の人々に講じた。これに深く感動された推古天皇より播磨国の水田を賜り、太子はこれを若草伽藍創建のために布施した。『日本書紀』によると、寄進の時期は推古14年(606年)7月、水田の規模は100)
(3)播磨国に法隆寺の荘園があった。兵庫県太子町斑鳩寺には聖徳太子勝鬘経講讃図がある。
(4)三教義疏は聖徳太子の真筆、他の2つの義疏は後世の写本といわれている。

7.五重塔の問題
(1)法隆寺の歴史を見てきた。
1)法隆寺は先ず、若草伽藍が推古天皇15年(607年)のころ聖徳太子による創建。
2)ほぼ同時に、北方建物が建立され釈迦三尊像・救世観音像・玉虫厨子が安置される。
3)天智天皇9年(670年)に若草伽藍は一屋余すところなく灰燼に帰した。
4)現存する法隆寺西院伽藍は7世紀後半から8世紀初ころ建立された。
(2)ところが、法隆寺西院伽藍の五重塔の芯柱は年輪年代法から594年に伐採されたことが判明した。若草伽藍が創建される以前から現在の西院伽藍の位置に五重塔があったのだろうか。
 ()五重塔といっても芯柱のみの殺柱塔として建立され、西院伽藍が整備される際に、五重の層から成る五重塔が完成したということが通説となった。
8.釈迦三尊像光背銘および台座
 釈迦三尊像の舟形光背の裏面に196文字の銘文がある。下記Webページには拓本がある。
銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日(622222日)などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となっている。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古である。

漢文で記された銘文の口語訳を上記Webページから転記した。
1)法興のはじめより31年、つまり推古天皇29年(62112月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が崩じた。
2)翌年(622年)正月22、聖徳太子が病に伏し、気も晴れなかった。
3)さらに、聖徳太子の膳部菩岐々美郎女(膳夫人)も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。
4)そこで膳夫人・王子たち(山背大兄王ら)は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。
5)「三宝の仰せに従い、聖徳太子と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」と。
6)しかし、221、膳夫人が崩じ、翌日、聖徳太子も崩じた
7)そして、推古天皇31年(623年)3月に、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背台座)を造りおえた。
8)この小さな善行により、道を信じる知識造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、聖徳太子の生母・聖徳太子・膳夫人に従い、仏教帰依して、ともに悟りに至り、
9)六道輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。
10)この像は鞍作止利に造像させた。

 上記 5)の原文には聖徳太子の「往登浄土」のために造立したことが明記してある。このことは法華経の霊鷲山浄土であることを意味している。この銘文の趣旨を踏まえて、釈迦如来台座では下座に須弥山世界図、上座には霊鷲山浄土図の表現が行われている。
聖徳太子や上宮王家の人々の中には法華経の真髄を理解していることが分かる。かくして、釈迦三尊像は7世紀前半には仏教文化の最高のモニュメントとなっていた。

9.現在の法隆寺を建てたのはだれか
 昭和47年(1972年)梅原猛氏は著書『隠された十字架』の中で法隆寺を上宮王家の子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じ込める鎮魂の寺という説を主張した。
怨霊信仰は法隆寺が再建された奈良時代初期にはなかったということで、歴史学の研究者の間では、梅原氏の主張に批判的であった。

 法隆寺西伽藍の再建が完了したのは711年とすると誰が法隆寺を再建したのだろうか。
(1)聖徳太子は622年没であり、山背大兄王たち上宮王家は643年に蘇我入鹿によって滅ぼされている。
(2)一方、蘇我入鹿は645年、乙巳の変で中大兄皇子と藤原鎌足により暗殺、父・蘇我蝦夷も同年死んで蘇我宗家は滅亡した。

 八世紀初頭に法隆寺を再建できる仏教に信仰が厚く、政治力、経済力を有するのは誰か。想像してみた。
1)県犬養三千代(665-733)
藤原不比等の夫人である県犬養三千代の影響があると思う。現在の法隆寺大宝蔵院に「伝橘夫人念持仏(阿弥陀如来三尊像)」が収められている。また、県犬養三千代の子である光明子(聖武天皇の后・光明皇后)は法隆寺西円堂を建立した。

2)道昭(629700
道昭は遣唐使として653年に入唐し玄奘三蔵の弟子となって、法相教学を学び、660年頃に帰朝した。日本法相教学の初伝となった碩僧。行基の師でもあり、土木工事にも活躍した。

 3)聖武天皇(701756)・光明皇后(701760
 聖武天皇・光明皇后は東大寺、法華寺、新薬師寺を建立し、全国に国分寺・国分尼寺を建立した。聖武天皇の在位は724749年であり、法隆寺再建が711年頃とすると直接は関わっていないかもしれないが、法隆寺が再建されていく姿を見ていたに違いない。聖武天皇の時代は仏教が最も華やかに花開いたときである。平城京遷都に伴い、興福寺(710)、元興寺(718)、薬師寺(718)が平城京に移築され、728年には東大寺の起源となる金鍾寺が聖武天皇により建立された。

 4)藤原不比等(659720
 7世紀後半から8世紀前半にかけて、抜群の政治力、経済力を有したのは藤原不比等である。娘宮子は聖武天皇の母であり、光明皇后は不比等と県犬養三千代(橘美千代)の間に生まれた娘である。権力者が権力を行使するには大義名分が必要である。その大義名分は「仏教に篤く帰依し、仏教による国家鎮護を根本理念とする」ことであったと思う。
 不比等の眼には日本仏教の精神的な主柱である聖徳太子が創建した若草伽藍は670年に焼滅して、北方建物だけが立っている情景が映ったに違いない。そして、北方建物の中には聖徳太子に最も関係が深く仏教文化の最高のモニュメントといわれる釈迦三尊像を本尊とし、同じく聖徳太子の等身仏といわれる救世観音立像と玉虫厨子が安置されている。
法隆寺を再建しこれら三体を金堂に安置して、聖徳太子を供養することで不比等の大義名分は成就した。

5) 天武天皇(?-686)・持統天皇(645-703)
奈良芸術短大の前園実知雄教授は「天武・持統天皇が援助したことは間違いない」との説を述べている。(朝日新聞2016-4-17 )

2014年11月11日火曜日

錦秋の候に思う


錦秋
 例年11月の第1週は同窓会で東京・有楽町の割烹に集まるが今年は幹事が栃木県出身なので、栃木・板室温泉で一泊の同窓会となった。塩原も那須の山々も紅葉に染まり見事であった。

末法の時代
 同窓会の宴会では一人ずつ近況報告をした。大学教授であったK君は病気年齢の話を工学博士らしく理路整然と話した。即ち、男子の平均寿命は79.55歳、健康寿命は70.42歳でこの差9.13年は病気年齢であるということであった。集まった同窓生18人全員が昭和163月以前に生まれており、病気年齢に入っている。近況報告をする多くの人々が病気の体験談をするようになった。仏教的には末法の時代に生きているような感覚になった。

チンパンジーには病気年齢は無い
 チンパンジーはリンネの分類では霊長類・ヒト科・チンパンジー属・チンパンジー種、現生人間は霊長類・ヒト科・ヒト属・ホモサピエンス種でありチンパンジーとヒトは極めて近い。遺伝子の差は2%以下であるという。
京都大学霊長類研究所の松沢哲郎先生はチンパンジーとヒトの差の一つは子育ての方法にあるという。チンパンジーの母親は5年間一人で(松沢先生はチンパンジーを「匹」や「頭」ではなく「一人、二人」と数える)育てる。
子育てが終わると次の子供を5年間育てる。チンパンジーの寿命は40年くらいなので7回くらい子供を育ててあげると寿命が尽きるのである。即ち、現役のまま死んでいくのであり、病気年齢はない。
一方、人間は子育てが終わっても生きていく。子供の子育てを母親だけに任せず手伝うことに人間の使命があると、松沢先生は言う。

病気年齢をいかに生きるか
 人は子育てが終わっても80歳前後まで生きる。ドーキンス著「利己的な遺伝子」によれば、遺伝子は自分自身を如何に増やすことが究極の課題である。人間は「乗り物」に過ぎない。遺伝子は自分の複製子を如何に次の乗り物に移していくかが主目的である。遺伝子から見れば病気年齢の乗り物は不要である。だから、遺伝子は、乗り物である病気年齢の人間が次の世代を作らないように、生殖器官の癌を引き起こす。前立腺癌、乳癌、子宮は遺伝子の意図なのである。
遺伝子の意図に対抗しても病気年齢を生きていく人間の目的は何か。ドーキンスは人間は文化(情報)を次の世代に伝えていく使命があるという。ドーキンスは生命の遺伝子DNAに対し、文化(情報)の遺伝子をMEME(ミーム)と名付けた。
 
人間はDNAとMEMEと2つの遺伝子を次世代に伝えて使命があるのである。

私のミーム
 私は110か月の孫がいる。私は自分の子供には仕事が忙しく何もしてやることが出来なかった。孫にはわたくしのミームを伝えていきたい。先ずは、遠山啓著「さんすうだいすき」という絵本を買った。

2014年3月31日月曜日

わが心の歎異抄 

  
 私は天台宗の寺の檀家として二十数年間、世話人をしている。天台宗の開宗1200年の年に比叡山から法名をもらった。「叡文」という。叡文坊になったのである。しかし、わが家の書棚は最澄よりも親鸞に関する本が多い。笠原一男、赤松俊秀、梅原猛、増谷文雄の本に混じって今井雅晴著「親鸞とその家族」や「わが心の歎異抄」等がある。

 ・ 歎異抄の魅力
 高校生の時に父に倉田百三の「出家とその弟子」を買ってもらった。父はこの本を知らなかったようで「歎異抄」の焼き直しと言ったら、即、買ってくれた記憶がある。
出家が弟子に話す優しい言葉に惹かれた。友人の母親に貸したら「暗い感じの本」という読後感であった。「わかっていないな」と密かに思った。大学に入って初めて「歎異抄」を読んだ。古文で記した文章は慣れていないこともあって殆ど理解できなかった。しかし、簡潔な文体の名文である歎異抄の不思議な魅力に惹かれ、時々思い出しては手にとって見るようになって40数年になる。

・ 往相回向・還相回向
 歎異抄から見える親鸞の思想は、「悪人正機説」と「二種回向」である。「悪人正機説」は第3章に明記されていて、歎異抄の中でも最も有名な文である。一方、「二種回向」は往相回向・還相回向を指す。往相とは弥陀誓願不思議によって浄土に往生すること、還相とは再びこの世に還り来て、この世の人々を救わんとすることである。
親鸞の主著「教行信証(国宝)」では往相回向・還相回向がセントラルドグマであるという。
「歎異抄」では「二種回向」は明確ではないが、精読すると、第4章に「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」、第5章に「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道、四生のあいだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなり。」と記されており、親鸞は唯円に真宗のセントラルドグマを伝えている。
 「二種回向」の考えは縄文時代から日本人の心の底に植え付けられている「人間は死ぬと近くの山に行き、やがて、再びこの世に生まれ変わる」という死生観と合致するところが大きい。
 親鸞は九歳で比叡山に入ってから約20年間修行する。親鸞にとって比叡山は母なる山である。親鸞は「天台本覚思想」の醸し出す雰囲気の中で修行したと思う。
「山川草木悉皆成仏」の考えは少なからず親鸞に影響を与えた。「天台本覚思想」は日本人の心底に響くものがあり日本の仏教の根本的な思想となっている。
 即ち、日本の仏教は縄文時代から流れる日本人のこころを包み込み、そして親鸞の
往相回向・還相回向はその流れの中にある。

 親鸞の言葉を聞語りとしてまとめた唯円の「歎異抄」は縄文時代からの日本人の心の原風景を反映したものである。だからこそ、親鸞の思想のエッセンスを格調高く名文でまとめた「歎異抄」は日本人の琴線に触れて愛読され続けるのである。

 歎異抄の著者・唯円開基の報仏寺
報仏寺は水戸市河和田にある。枝垂桜が見事である。

唯円開基の大きな碑


法喜山泉渓院報仏寺 浄土真宗のお寺である






青春の詩

山形大学工学部のキャンパスには明治43年に創立された旧制米沢高等工業学校本館(国重文指定)がある。そして、その校舎の前に「青春」の碑がある。同校講師・岡田 義夫氏の邦訳した詩である。

「青春」の詩碑


                    詩碑建立の記
「青春」の詩碑

旧制米沢高等工業の本館


青春の詩
原作 サミュエル・ウルマン
邦訳 岡田 義夫

青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易をを振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いが来る。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に青春はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月
の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く 驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に対處する剛毅な挑戦、小児の
如く求めて止まらぬ探求心、人生への歓喜と興味。
  人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
  人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
  希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽い
つくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて、神の憐みを乞うる他はなくなる。

YOUTH
Samuel Ullmann

Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination,
a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure
over love ease.

No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old only by deserting their
ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt ,
self-distrust, fear and despair-these are the long ,long years that bow the head and turn the
growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen, there is in every being's heart the love of wonder, the sweet
amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undoubted challenge of
events, the unfailling childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.


you are yang as your faith, as old as doubt ;
as young as your self-confidence, as old as your fear;
as young as your hope, as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the
earth, from man and from the Infinite so long as your young.

When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of
pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on
your soul.

2014年3月29日土曜日

方丈記を読む

玄侑宗久氏の「無常という力」(副題が「方丈記に学ぶ心の在り方」)という本を読みました。

”ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず”という名文ではじまる方丈記に最初に出会ったのは、高校1年の夏休みの課外授業のときでした。
先生が朗々と読み上げる名文に(中学を卒業したばかりのイガクリ頭では理解することは困難でしたが)、このような世界があるのかと大いに心酔しました。

2回目の出会いは3年前、大震災が起こる前でした。
放送大学の島内裕子先生の「日本文学の読み方」という講座で鴨長明に邂逅しました。
隠遁した坊さんの単なる随筆ではないという講師の説明に接し、方丈記の原文が読みたくなり、岩波の古典文学大系を夢中になって読みました。
大火、辻風(=竜巻)、震災、福原への遷都、飢饉などなどが克明に書いてあり、方丈記は「災害記」であることが分かりました。そして、底に流れる無常ということです。
やがて、2011年3月11日の大震災が発生しました。私は真っ先に方丈記を開きました。

3回目は今回の玄侑氏の方丈記です。
玄侑氏は福島県三春町の福聚寺の住職ですが、私は玄侑氏が副住職のときに福聚寺でお会いしたことがあり、親しみを感じる住職です。芥川賞作家であり、東日本大震災復興構想会議委員として超多忙な方です。
長明が経験した平安末期・鎌倉期の大災害に勝るとも劣らない今回の災害の中心地フクシマで玄侑氏は追体験しているのですね。
長明は他力本願の浄土系の坊さんであり、玄侑氏は京都・天竜寺で修行した臨済宗の禅僧ですから立場は異なりますが、桑門同士心通じ合うところは大いにあるようです。
長明を最初に評価したのは夏目漱石(および門下生の内田百閒)といわれてますが、現代では長明を最も理解しているのは玄侑氏であると思います。

昨日のメールに対しちょっと補足します。
鴨長明は方丈記で名を残しましたが、元来は歌人であり、『新古今和歌集』の編纂者です。自らの歌も『千載和歌集』に一首、『新古今和歌集』に十首入集しています。
鎌倉に下向して、3代将軍・実朝とも面談しました。(ご存知のように実朝は歌人でもありました。)
長明は歌人としての矜持を胸の底に抱き続けた人生を送ったと思います。
しかし、方丈記には歌人としての話は一切出てきません。災害記と閑居記に的を絞って方丈記を書き上げました。そこに方丈記のすごさがあると思います。

さて、方丈記は「序文」・「五大災厄」・「草庵生活」・「跋文」の4部構成です。

”ゆく河の流れは絶えずして・・・”の序文は有名ですが、玄侑氏は「跋文」に力点を置いて解説しております。

長明は世捨て人として草庵での生活のよさを述べていたのですが、「跋文」ではこれらの閑居生活は愚かな間違いではないか、と自己批判します。
「方丈の庵での生活を愛し、閑居に拘るのは仏様が否定している執着そのものではないか。つまり、往生の妨げではないか、そもそも、お前は修行しようとして出家遁世したのではないか」と激しくおのれを責め立てます。

自己批判はさらに続きます。
「おまえは出世したくせに、その心の有様はどうだ。このひどい体たらくは、前世の業の報いなのか、煩悩の故に正気を失った正なのか?」

長明は、この自問に答えることが出来なかった、と吐露しています。
「不請阿弥陀仏、両三遍申してやまぬ(ただ、なんとか舌の力を借りて、お救い下さる阿弥陀仏の御名を、二、三度唱えただけである)」で方丈記は終わっています。

玄侑氏は「長明は阿弥陀様の本願を信じて二、三回、”南無阿弥陀仏”とあいさつした。他力の教えに近づいた。」と評価しています。

放送大学の島内裕子先生は長明が自己批判に答えられなかったことに対して、「長明の自己に対する誠実な姿勢の表れでなくてなんであろう。」と学者としての意見を述べております。

私は方丈記の中に『往生要集』があることに気がつきました。この本は恵心僧都・源信が著した浄土教のバイブルです。この流れに沿って、法然や親鸞が浄土宗・浄土真宗を立ち上げました。
長明もまた、機を同じくして、浄土教の流れの中で自己を進化していったものと思います。